田原の海とサーフィンに力を注いだ半世紀

2024.12.02

田原市赤羽根町でサーフショップを営む加藤昌高さんは10代の頃から田原に通い、競技としてのサーフィンに熱中した。素晴らしい海でサーフィンができる田原のために、ごみ問題など次から次にでてくるサーファーと地域が直面する課題にも仲間と共に向き合ってきた。2007年に移住し、海岸清掃からサーフィンの国際大会の誘致まで幅広く田原に力を注いでいる。

この素晴らしい海でいろんな人にサーフィンを体験してもらいたい

「まだ海入ってたんだ、波のサイズどうだった?」
サーファーに声をかける加藤さんは、ロングビーチに近いMIC GROWING SURF PRO SHOPのオーナーだ。1981年に愛知県知立市で開業。2007年からは田原市で店を開き、ビギナーの体験スクールから上級者のレベルアップレッスンまで、幅広くサーフィンスクールを行っている。

「サーフボード乗っけて、かっこいいじゃん」

18歳のときドライブで田原を訪れ、はじめて見たサーフボードを積んだ車に導かれるように、ロングビーチに降り立った。

「ここはカリフォルニアか? と思うほど、見たことのない美しいビーチ広がってて、5~6人のサーファーが波に乗ってるのを眺めてたら、自分にもできそうだなと。地元に帰ってサーフショップを探して、はじめたんだよ。サーフィンってかっこよかったね」

都会で暮らし働いていた加藤さんにとって豊かなで神秘的な田原の自然は「憩いのオアシス」になった。愛知県知立市から片道2時半かけて週3で通い、サーフィンの魅力に夢中になっていく。

日本サーフィン発展のために奔走する日々

競技に打ち込む一方で自分もジャッジする側になろうと、日本サーフィン連盟(NSA)に所属した。日本と世界が異なるジャッジ基準が日本選手の足かせだと考え、NSA理事の職を辞してサーフィンを国技とするオーストラリアへ渡る。オーストラリアサーフィン連盟でISA(国際サーフィン連盟)ルールの見直しに尽力し、そのルールを基に日本サーフィンは発展していく。

「サーフィンと田原のために自分ができるのは、大きな大会を続けて開催することだった」

ワールドサーフィンリーグ(WSL/当時ASP)のチャンピオンツアー(CT)で、フランスやスペイン、オーストラリアを渡り歩き、大会運営やジャッジにあたった。その経験を活かして、田原を中心に日本中での大会誘致を行ってきた。(写真はタヒチでISA会長フェルナンドさんとの一枚)

「田原のロングビーチとロコがあれば、どっちの風でもウネリに対応できる。世界大会を開くベストな環境だね」と加藤さん。北海道から沖縄まで日本全国で大会を開いたが、田原が一番だと話す。

迷わずやり続けるのは「自分にできること」

いま田原にはトイレやシャワーの設備や救助用のジェットスキーが整備され、海のレジャーを快適にそして安全で安心して楽しむことができる。ここに至るまでに、サーファー・地域それぞれの課題に向き合ってきた加藤さんたちの足跡がある。

「サーフィンをはじめて、5年くらいたったころ、新聞で『サーフィン公害』が大きく報道されて、大騒ぎでさ。このままじゃ田原で一生サーフィンができなくなると思った」

危機感を感じた仲間とともに様々な行動を起こす。今も続くビーチクリーンはその一つだ。当時は焼却施設がなく集めたゴミを知立まで持ち帰っていた。今では近所の農家さんが「お前たちがずっとやってるなら」と声をかけてくれ手伝ってくれるのだと、加藤さんは嬉しそうに話す。

「地域の風土とかそういったものを感じるってことも移住者として大切だね」
サーフィンだけでなく、自分にできることは何にでも取り組んできた加藤さん。いま自分ができることに力を注ぐスタイルは変わらない。2007年から続く安全波乗隊などのボランティア活動はもちろん。現在は観光協会の理事として、キャンプ場整備したり、BBQを行ったり、田原の自然を活かしたアウトドアに力を入れる。(下の写真は安全波乗隊の仲間との一枚)

「いまは店を息子たちに任せているが、さらにすべて任せて悠々自適に暮らしたいなとも思うけど、2026年のアジア大会までは、田原のために頑張っていこうかな」と加藤さん。

〝憩いのオアシス〟をもっとよくして次の世代に引き継ぐべく、田原でのセッションはまだまだ続いていきそうだ。